魂は連鎖する
おはようございます。
千秋楽こそ伺うことができませんでしたが、
演劇女子部「続・11人いる!東の地平・西の永遠」
↑(コピペ)
ラス前となる恐らくはクオリティの高さでは追随を得ないであろう回を土曜日に観て参りました。そうです、WEST公演です。
千秋楽は少しいたずらをしたりするので演劇を見るのであれば千秋楽の前の公演がおすすめです*1
今回の作品の素晴らしさを語る方々はいくらでもいると思いますので、モーニング娘。という縦軸で物語を語る意味でも僕にしかできない*2
そんな更新です。
僕の暑苦しさと言うのは何も今にはじまったものではなく、相応に嫌われたり鬱陶しがられるようなスタイルでして、そういう部分を含めて親しくさせていただいているトモダチの皆様には本当に感謝しています。
今回の舞台、EAST、WESTと見て、そこそこのネタバレを見て思ったことは…
もしかすると10年前のあの夏を自分は仮想体験しているのかな、というようなおかしな気分でした。
今回の牧野真莉愛に与えられた配役はオナ役(EAST)/チュチュ役(WEST)と主役級の4人には含まれておりません。
それでも、配役上6/5番手に記載されるだけのことがあり、しっかりと見せ場を頂くことができました。
けれども、主役ではありません。主役でもない15歳の可憐な少女に感じたこの気持ち。
あの夏をほんの少し振り返っています。
2006年…モーニング娘。を中心としたハロプロメンバーのミュージカルの制作が発表されました。
キャリア5年を迎える脂の乗り切った時期で、いまやエースとしての地位を確固たるものにしていました。
幼いころから宝塚にあこがれていた少女の夢がのちの「シンデレラ」と併せて華開いたわけです。
その夏、はてなダイアリーのモーヲタからはそこそこ不評ながらも、はてなダイアリー限定で「リボンの騎士・ザ・ミュージカル」のブログ評をまとめるキャンペーンをやっておりました。
まったく意識していませんでしたが、今思い返すとニュースサイトというよりはまとめサイトみたいなことをやっていたんだなと思いなおしました。
これが私の初演を見た感想。
ダイアリーからブログへ移転したため、自らのリンクはすべて変わってしまっていますし、もはや10年前ですので閉鎖移転したブログも少なくないです。
ちなみに、7/31~8/31くらいまでの内容はミュージカルだけと言っておかしくないくらいですので、ある意味パラノイアですよね、今振り返りますと。
そんな中、初演を見た男のダイアリーを振り返ってわけですけど…
当時リンクしていた記事じゃない方を拾ってきましたが(笑)
http://d.hatena.ne.jp/tomoaki524/20060801/1154439165
こういう熱い夏を過ごした日々を思い起こさせてくれました。
2016年初夏。
やや蒸し暑い梅雨時らしさのない天気でしたが、WEST公演のチュチュ役にはしびれました。
発展途上にある牧野真莉愛。その配役は相撲で言うところの家賃が高い状態だったことが想像に難くありませんでした。事実私が見たWESTの前のヒルのEAST公演での牧野真莉愛は感極まり最後のあいさつで涙したと言います。
そのプレッシャーは相当なものだたはず。
牧野真莉愛の欠点を音痴と言う不見識*3を散々拝見しながらこの1年半過ごしてきましたが、正確には発声(声量というよりは持続して声を出す)が難があり、セリフ回しのような場合もそれがネックとなるんですね。
よく、歌が下手で感情移入できないみたいなことをこの期間中おみかけしましたが、
それは
感情移入できない歌い方を石田がしてるんじゃなくて、石田の感情に染まれないお前の感受性が微弱すぎて、生きていくことがつらくてごめんなさい、ミジンコレベルから人生やりなおしたいです、ちょっと恥ずかしいので照れ隠しに石田叩いちゃいました!
みたいな感じですかね。
宝塚にだって歌が得意ではない主演級の方はたくさんいるように、決定的な欠落にならないのが演劇の魅力ではあるはずです。
僕が考える演劇の基本は「心がある」ということにつきまして、早い話その役に入り込めているかどうか?ということではあります。
それが正しいかどうかわかるほど演劇論にたけていませんが、5分の歌の世界のヒロインであり続けた高橋愛という人がひとかどの演劇人として活躍していたのは(今も現役ですけど)この部分の才能が本当に素晴らしかったので。
話がそれましたが、そういうわけで東京初演のEASTでのオナ役、かりそめにも東宝ミュージカルを見るまでに成長したヲタクからすれば、物足りない演技でした。
それは、上記の事由がまだまだ主役には及ばなかったからです。
しかしながら、一人の熱い牧野真莉愛のファンとして、彼女が筆舌に尽くしがたい努力をしていたことが手に取るように伝わってきたんです。もう溢れるほど。
演劇の観客としては非常に恥ずかしいですが、演劇女子部だけでなく、配役に対しても自分の鑑賞スタイルのハードルを下げました。
生意気な表現に見えるかもしれませんが、一般的な演劇に対する畏怖の精神と思っていただければ幸いです。
とにかく、オナ役の牧野真莉愛はあまりにも美しかった。聖母マリアに例えられるのは名前だけでない牧野真莉愛の核ですので、この配役はいたって成功していて、ほんの少し目を瞑れば許せる程度の不足があったわけです。
この美しさだけでオナ役を単騎でやらせてもおかしくない魅力があったと思います。
歌唱は言われているほどひどくなくて、むしろセリフ回しに思う部分がありましたが、あの儚さは譜久村聖を凌ぐものだったと断言します。
譜久村聖のオナ役は威厳。
ここに二人の美少女が描く役柄への印象と自らが立つ地平が見事に伝わってきました。
2016年6月25日夜。
体が震えでとまらなくなりました。
牧野真莉愛は、美しい。
その美しさはチュチュ役では男の身なりをしますからなりをひそめるはずなのですが、とても美しかった。
主役のようにスポットライトを浴びることはほとんどないのですが、舞台の上でずっとスポットライトがあたってみていたんですよ。盲目と言われたらそのとおりなのですが、舞台の筋を見ている地にただ一点を見据えるようになってしまう感覚。
この配役は喜怒哀楽すべてをあらわさなければならないため、フロルほどではないにしても結構役作りが難しい配役だったわけですが、牧野真莉愛のチュチュ役は、その感情がダイレクトに入り込んでくるんですね。
歌唱と言う絶対的な武器を持つ野中チュチュと違い、そこが最大の魅力。
西の地の可憐な姫君が狂気に染まる意味でのオフィーリア的側面は、いつか、牧野真莉愛が舞台で主演を務める日が来るようであれば、笑顔でひも解いておきたい、名場面の数々でした。
2006年の夏に戻ります。
第2幕 第6場 宮殿
…大臣。この顔に見覚えは?
大臣
ん?
(小刀をかまえ)覚悟!
息子
危ない!
M45「花嫁候補の正体~フランツの出}
息子、サファイアを突き飛ばす
大臣
お前は誰だ。
サファイア、村娘の衣装をはぐ
見忘れたか。
サファイアとヘケート
私の願いは 叶えられる!
サファイア、フランツの剣に自ら飛び込んで倒れる。
音楽、止まる。
さて、2016年に戻ろう。
演劇というものはそれこそいやというほど演じられ、習作と言われるような作品、場面というものが古典劇などからとる場面も少なくはない。
チュチュ役という配役は牧野真莉愛にはとっても大切な役になったと思う。
そしてその配役にふさわしい演技のために、舞台に出るその瞬間まで、毎日毎日歌唱指導の先生としていたことが伝わってくる。
この人は根っからのモーニング娘。であり、一人の若き演劇人なのだと目頭が熱くなる。
推し補正と呼ばれるのは承知なのだが、これだけの演技を与えてくれたことに感謝しかない。
素晴らしい物語であった。
ローン団長(尾形春水/飯窪春菜)が和平交渉を実現するために足を引きずってバセスカのもとへ歩み寄るシーン。
石頭(羽賀朱音/生田衣梨奈)が宇宙大学というよりはバセスカを守るために啖呵を切るシーン。
一場面一場面にドラマはあり、その短いシーンですらそこまでのドラマを感じずにはいられなかった。
そういう芝居が終わってしまった。
最後に今回さんざん登場した「リボンの騎士」の演出家
木村さんの言葉で締めたいと思います。
上記『リボンの騎士 ザ・ミュージカル』の千秋楽の終演直後、新宿コマ劇場の客席からの鳴り止まない喝采やコールを聞きながら興奮冷めやらぬモーニング娘。 らの演者を前にして演出家木村信司が語った言葉が同作品の付録映像としてDVDに収録されている。
「今、これで緞帳は下りた。まだお客様は帰ってない。 でも、リボンの騎士はどこに行ったかというと、もうどこにも無い。 形としてのリボンの騎士はもうどこにも無い。 もう一回繰り返そうとしてももう無いんだ。これが演劇。 でも、じゃあ完全になくなったか? といったらそうじゃない。 みんなの心の中に残ってる。それが演劇の感動なんです。 1回こういう感動を得たらば、お客様というのはずっと墓の中まで持っていく。 お爺さんお婆さんになるまで。 『あの舞台は良かった。未だに忘れられない。細かいことは忘れてても、本当に良かった』っていう これがみなさんが生きてきた舞台という空間なんです。 それを最後にみなさんにお伝えしたくて、この席を借りました。 みんなの心の中にも、いつまでもこの公演が心に残ること、 同じように、演出家から最後の言葉です 『僕も、みなさんのことは忘れません』 以上です。ありがとうございました。 」
2006年に魅せられた者として一言蛇足ながら述べたい。
魂は連鎖する。
2016年に魅せられた方々が
2026年に再び素晴らしい舞台を語るときに
この作品を語るときが来ることを願ってやまない。
2026年も2036年も
モーニング娘。の舞台を語れるような環境が続きますように。